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『天地明察』(冲方丁,角川書店,2009.11.30) [本]

ようやく読了。
渋川春海という囲碁の達人が、改暦にかける物語。
こんな人物がいたということそのものが感動。
特に、登場人物の学問への熱意に心を打たれた。

P.179
「値を三度もの幅で誤るとは。いっそ己が身を海に投げ込みたい思いじゃ」
 天測における一分の違いは、地上においては半里もの差となる。三度の違いとなればここから遙か南の海の真っ只中に等しいゆえの建部の言葉だった。それが春海にもわかった。だが次の言葉は、春海の思案の枠すら遙かに超えた。
「なんとしたものか……どこかで歩測を大幅に謝ったに違いない」
「歩測?」
 思わず春海は口にした。すなわち歩数を数えることである。いったいどこからか。咄嗟に混乱したが、答えは一つしかない。
「まさか……江戸からでございますか?」
「うむ」
「はい」
 当然だろうと言うように建部と伊藤にうなずかれ、春海は愕然となった。建部だけでなく伊藤までもが、江戸からここまで己の歩数を延々と数え歩いてきたというのである。
 いったいなんのためか。二人の傍らに置かれたそろばんの意味がやっと分かった。
「お……お二人様は、歩測と算術で、北極出地を予測されておられたのですか?」
「うん」
「うん」
 当然というより無邪気きわまりない返答が来た。
 しわくちゃの顔をしただけで実はまったく歳を取っていない二人の少年が目の前にいるかのように錯覚され、春海は、なぜかぶるっと身が震えた。体内の嫌な陰の気がどっと体外に放出されて、新たな気が入ってくるようだった。まさに息吹だった。心から祓われ浄められるということを生まれて初めて実感した。この二人にわけも分からぬままそうさせられた。

P.181
 春海は慌ててかぶりを振った。
「し、しかし、私では、術式でも答えでも誤りを犯すだけで……」
「それは良い。全霊を尽くして誤答を出すがいい」
「そうですそうです。遠慮なく外して下さい」
 建部と伊藤が次々に言った。どちらも稚気と言っていいような陽気さを発散しており、春海はそれにあっさり呑み込まれた。寒い冬の日に火鉢を抱いたような温かさを感じた。

P.182
 建部が言った通り、中間たちが率いる別の隊によって道中の距離が測定されながら移動が行われた。それでも建部も伊藤も、ほとんど喋らず、黙々と歩いている。地道に歩数を数えているのは明らかだった。その歩みを二人の背後で見つめながら、突然、昨夜のようにぶるっと身が震えた。震えが膚にいつまでも残るようだった。しばらく歩き続けてやっと、それが単純でいて底深い感動のさざなみであることを悟った。

P.188
 “私でも、良いのですか”
 関への設問を誓ったあの晩、稿本に向かって問うた思いが、再び熱く胸に湧いた。
 一心に北極星を見つめた。まさに天元たるその星の加護があるのだと信じたかった。いつでもあるのだと。誰にでも。ただ空に目を向けさえすれば。
「この私でも……」
 そろそろと息を吐きながら小声でささやいた。
 星は答えない。決して拒みもしない。それは天地の始まりから宙にあって、ただ何者かによって解かれるのを待ち続ける、天意という名の設問であった。

P.207
 たちまち建部と伊藤が一緒になって食いついた。勢い、春海は金王八幡の算額絵馬のことや礒村塾や“一瞥即解の士”たる関孝和について話さざるを得なくなり、
「そのような人物が江戸にいるとは」
 建部など力いっぱい拳を握りしめ、
「ぜひ弟子入りしたい」
 はっきりとそう言った。なんと伊藤まで首肯している。この二人の老人にとって研鑽のためなら三十も年下の若者に頭を垂れることなど苦でも何でもないらしい。それどころか、
「だいたいにして若い師というのは実によろしい」
「ええ、ええ。教えの途中で、ぽっくり逝かれてしまうということがありませんから」
 などと喜び合うのだった。

P.219
 いったい二人とも、どうしてこう、途方もない一大構想を自分に見せつけようとするのか。何か自分に含むところでもあるのか。ついつい本気でそう口にしたくなった。
「いえいえ、私の年齢じゃ、寿命が来るまでにはとても追っつかないでしょうねえ」
 と伊藤は言う。だが逆に言えば、それは、実際にやろうと算段を整える努力をしたことがあるということだ。天まで届く巨大な城の設計図を試しに書いてみたと言っているに等しい。
 それだけでもどれほどの学問修得と日々の研鑽が必要だったか。想像して春海の背をぶるっと震えが駆け抜けた。
「なら、ねえ……若い人に、考えだけでも、伝えておきたいと思いましてねえ……」
 伊藤はそう言ったが、春海がそのとき深く感銘を受けたのはまったく逆のことだった。人には持って生まれた寿命がある。だが、だからといって何かを始めるのに遅いということはない。その証拠が、建部であり伊藤だった。体力的にも精神的にも衰えてくる年齢にあって、少年のような好奇心を抱き続け、挑む姿勢を棄てない。伊藤が天測の術理を修得したのは四十を過ぎてからだという。自分はまだ二十三ではないか。何もかもこれからではないか。そんな幸福感を味わう春海に、
「どうです。面白いでしょ」
 伊藤がいつもの丁寧で柔和な笑顔を見せて言った。城中でありとあらゆる者の横柄な態度に慣れた春海には、それだけで改めて新鮮さを感じさせられる笑顔である。
「はい。とても面白うございます」
 元気良く答えたところを、
「頼みましたよ」
 ぽん、ときわめて自然な所作で肩を叩かれた。なんだか無性に嬉しくなった。
「頼まれました」
 つい反射的に笑顔で応じていた。やがてそれが本当に、春海にとって空前絶後の大事業になるなどという予感は、このときはかけらも抱かなかった。だが自分はこれからなのだ、という思いを繰り返し味わい、喜びの念に陶然となるばかりであった。

P.292
 それが判明してなお、春海の中ではまだ余裕にも似た気持ちが残っていた。まさか自分のような者にそれほどの事業を率先して行わせるはずがない。精神の逃げ場と言っていいそれを素直に吐露するように尋ねた。
「ふ……不肖の身なれど、粉骨砕身の努力をさせて頂きます。それで……どなたのもとで尽力すればよろしゅうございましょうか?」
 正之の目が僅かに見開かれた。春海の勘違いでなければ、正之が初めて見せた、きょとんとした顔だった。それからみるみる笑顔になり、ゆっくりとかぶりを振った。
「そなたが総大将だ、安井算哲。そなたのもとで人が尽力するのだ」
 今度は春海の目がまん丸に見開かれた。精神の逃げ場がその時点で完全に消滅した。
 たちまち息が詰まり、先ほど感じた血潮が一瞬で恐怖に凍りついた。
「い……い、いかなる思し召しで……、そ、そのような身に余るお役目を……」
「みながみな、同じ名を口にした。改暦の儀……推挙するならば、安井算哲を、とな」
「み、みな……? と申しますと……」
「水戸光国」
 正之が言った。ぱっと春海の脳裏にあの剛毅な顔が浮かんだ。
「山崎闇斎」
 春海の幼いときからの師であり、正之の侍儒だ。これまた春海の脳裏で豪快に笑っていた。
「建部昌明、伊藤重孝」
 その二人の名が挙げられた途端、ふいにまったく予期せぬものが込み上げてきた。
 “精進せよ、精進せよ”
 建部の楽しげな声がよみがえり、
 “頼みましたよ”
 今まさに伊藤に優しく肩を叩かれた気がした。
 おそらく建部は事業から外れてのち、伊藤は事業成就の後、それぞれ春海を推挙していたのだ。そう悟った途端、視界がぼうと霞み、目に純然たる歓びの涙がにじんだ。
「安藤有益。そなたも知る通り、我が藩きっての算術家だ」
 春海はうなずいた。声が出なかった。まさか安藤までもが。堪えきれず肩が震えた。
「酒井“雅楽頭”忠清。あの大老殿、そもそも暦術に興味など持ち合わせておらぬが、そなたには、いささか感ずるところがあるようでな。星のことはとんと分からぬが、算哲という者の熱心さは、信ずるに値する、と言うておった」
「し、しかし、わ……私は……この通り、若輩者でございます……」
「若さも条件だ。何年かかるかわからぬ事業であるゆえ、な」
 途端に、あの酒井の、
 “生涯かかるか”
 という言葉が、何年ぶりかに、胸に心地好く響いた。その瞬間ようやく心が定まった。たとえようもない使命感に身が熱くなった。
「まことに……私で、よろしいのですか」
 すっと正之の背が伸びた。
「安井算哲よ。天を相手に、真剣勝負を見せてもらう」
 からん、ころん。
 ふいに幻の音が耳の奥で響いた。咄嗟にそれが何であるか分からなかった。分からないまま、強烈な幸福感に満たされていた。いつか見た絵馬の群の記憶がよぎった。が、そうとはっきり認識する間もなく、春海は、たまらず衝動的に座を一歩下がり、平伏し、
「必至!」
 叫ぶように応えた。反射的に口から出たそれが、碁の語彙でもあると遅れて気づいた。
 正之が愉快そうに笑った。
「頼もしい限りだ、安井算哲」
 それが父の名であるという意識が、初めて春海の心から綺麗に消えていた。



天地明察

天地明察

  • 作者: 冲方 丁
  • 出版社/メーカー: 角川書店(角川グループパブリッシング)
  • 発売日: 2009/12/01
  • メディア: 単行本

江戸の天文学者 星空を翔ける ~‐幕府天文方、渋川春海から伊能忠敬まで‐ (知りたい!サイエンス)

江戸の天文学者 星空を翔ける ~‐幕府天文方、渋川春海から伊能忠敬まで‐ (知りたい!サイエンス)

  • 作者: 中村 士
  • 出版社/メーカー: 技術評論社
  • 発売日: 2008/06/25
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)



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