『利休にたずねよ』(山本兼一,PHP研究社,2008.11.07) [本]
言わずと知れた山本兼一の直木賞受賞作。
受賞後に読んだのだが、利休の死から時間軸を逆にたどっていく手法は新鮮だった。
千利休という誰もが知る人物を語るには、確かに有効。
特に、木槿の花に例えられ、物語の随所に姿を現すが、その実像のつかめない高麗の姫とのシーンを最後に持ってきているため、想像が掻きたてられる。
印象的だったのは、次の一節。
皮肉なのは、利休がそこまで精進した茶の湯が、利休の孫である宗旦により、ひ孫にあたる宗盛(武者小路千家)、宗左(表千家)、宗室(裏千家)の三千家に分かれてしまったこと。
その過程でなにか重要なものも見失ったのではないだろうか……。
そんな気がしてならない。
受賞後に読んだのだが、利休の死から時間軸を逆にたどっていく手法は新鮮だった。
千利休という誰もが知る人物を語るには、確かに有効。
特に、木槿の花に例えられ、物語の随所に姿を現すが、その実像のつかめない高麗の姫とのシーンを最後に持ってきているため、想像が掻きたてられる。
印象的だったのは、次の一節。
P.246
「そのほうは、なんと見た。ただ茶を喫するばかりのことに、なぜ、かくも人が集まってくる。なぜ、人は茶に夢中になる」
利休はゆっくりうなずいた。みなが利休を見ている。
「それは、茶が人を殺すからでございましょう」
真顔でつぶやいた。
「茶が人を殺す……とは、奇妙なことをいう」
秀吉の目がいつになく抉るように利休を見すえている。
「はい。茶の湯には、人を殺してもなお手にしたいほどの美しさ、麗しさがあります。道具ばかりでなく、点前の所作にも、それほどな美しさを見ることがあります」
「なるほどな……」
「美しさは、けっして誤魔化しがききませぬ。道具にせよ、点前にせよ、茶人は、つねに命がけで絶妙の境地をもとめております。茶杓の節の位置が一分ちがえば気に染まず、点前のときに置いた蓋置の場所が、畳ひと目ちがえば内心身悶えいたします。それこそ、茶の湯の底なし沼、美しさの蟻地獄。ひとたびとらわれれば、命をも縮めてしまいます」
話しながら利休は、じぶんがいつになく正直なのを感じていた。
「おまえはそこまで覚悟して茶の湯に精進しておるか」
うなずいた秀吉が、溜息をついた。
皮肉なのは、利休がそこまで精進した茶の湯が、利休の孫である宗旦により、ひ孫にあたる宗盛(武者小路千家)、宗左(表千家)、宗室(裏千家)の三千家に分かれてしまったこと。
その過程でなにか重要なものも見失ったのではないだろうか……。
そんな気がしてならない。
2009-05-27 21:47
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